連合神輿会の沿革
上清水八幡神社(10等級神社)
祭神 誉田別命(ほんだわけのみこと)応神天皇 寛治元年(1087年)源義家が勧請したという
武神の社。
明和5年戌子年(1768年)に風害により社殿は破壊し樹木の多くは折れたが、当時の氏子神職
等により修築したが、明和7年庚寅年(1770年)7月24日に火災により、社殿、金幣、神賓
記録等を焼失した。
尚、社殿は寛文12年(1672年)清水御船奉行 細井佐次右衛門が4代将軍徳川家綱の意を受
けて再建したもので、明治17年6月2日(1884年)に拝殿を増築した。
明治、大正の祭りは花火で賑わった。
又、2005年には寛治元年(1087年)の屋根瓦の一部が出土している。
徳川家より奉納された葵の定紋が本殿正面に掲げられている。
又、清水区三保の御穂神社と共に、徳川家より丸に三つ葉葵紋の御簾(すだれ)も保管されている。
境内にある大樟は八幡太郎義家の手植えといわれ、御簾と共に静岡市清水区の指定文化財に指定
されている。
昭和20年7月には、神社鳥居の再建材料も戦災の為に破壊されたが、昭和26年の神輿新造に
続き、昭和27年7月27日に石鳥居建設工事が竣工した。
尚、石鳥居建設の大部分の寄付は、長澤重兵衛氏によるものである。
相殿 上清水八雲神社
上清水八雲神社の祭神 相殿の素戔嗚尊(すさのおのみこと)は神威顕著にして、毎年6月15日
に祇園祭を挙行し、神輿渡御の式盛んにて老若男女の参拝者多しと、明治17年6月(1884
年)の神賓記録(氏子総代会の神社日誌)に記されている。
現在ここに伝わる「神輿」は三代目で、百貫神輿と言われ、天狗の装束を着た猿田彦を先導に
神輿を担いで練り歩く。
*素戔嗚尊(すさのおのみこと)とは
「牛頭天王」・・・ごずてんのう
「牛頭天王」はインド祇園精舎の守護神であって神仏習合によって日本の「すさのおのみこと」
に習合された為「すさのうのみこと」を天王と呼んでいた。
*八雲とは
八雲は「すさのうのみこと」が読んだ和歌には、出雲で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した
のち、出雲の地に留まり、「八雲立つ出雲八重垣妻籠」に和歌とされ「八雲」は出雲を象徴する
とされた。
*猿田彦とは
猿田彦(猿田彦命)は天孫降臨の際に、道案内をしたことから、道の神、旅人の神とされるように
なった。
路傍の神、村の守り神として信仰された道祖神と習合されて猿田彦命となる。
神輿と八雲連合神輿会の沿革
神輿は神様の乗り物、祭りで担ぐ神輿は、音読みで(しんよ)とも言う。
神輿(みこし)とは神の御霊(みたま)が宿っている御輿(みこし)のこと、「御霊移しの儀」を行い、
御霊が宿っている御神体を御輿に乗せると初めて「神輿」となります。
そのため「神輿」は神社にいる神様を分けてもらって乗せると言う事で分霊箱とも言われてい
います。
逆に「御輿」は御霊が宿っていない御輿で、子供御輿や万灯御輿など練習用に使われる物もある
*神輿渡御
神輿は神様あるいは神と同様の権威を持つ方の乗り物とされ、御神輿には元々人が乗ってはなら
ない事が原則である。
八雲神社の御祭神をお祀り(おまつり)した御神輿には何人であれ乗ってはならないし、御神輿を
二階等から見下ろす事は許されない。
上清水八雲神社の氏神様に御神霊として御神輿にお乗り頂き、氏子衆がその御神輿を担ぎ一年に
一度氏子地域の様子をくまなくご覧頂き、氏子の一年間の無病息災、安寧(あんねい)を祈念する
行事が神輿渡御である。
上清水八雲神社の神輿渡御では、宮入に際し鳳凰を外す時、及び拝殿に神輿を納める時、拝殿の
鴨居までの高さと神輿の高さの差が20cm強しかない為、決められた役員が神輿の上に乗る事
を許される。
*掛け声
古くから神輿を担ぐのは、皆「ワッショイ」であり、浅草の三社祭りも「ワッショイ」であった
が、路面電車が通り、交通事情の変化と共に現在の掛け声に移行した。
「ソイヤッ」「オイサッ」が江戸神輿の掛け声になった。
「ワッショイ」は人の和が大切で「和を背負う」の意味があるが、ここ八雲神社では神輿を担ぐ
時の掛け声は、前段で述べた「素戔嗚尊・・・すさのおのみこと」を天王と呼んだ事から
「御天王さまヨー」「御神輿さまヨー」の掛け声で担ぐ。
いつからこの掛け声になったかは不明であるが、二代目の神輿はこの掛け声で担いでいた。
*ビーズの御守り
担ぎ手が身に着けているビーズの御守りも、写真等では昭和初期にはあったと思われる。
このビーズの御守りは現在でも引き継がれ、担ぎ手本人が作成する。
現在、ビーズの御守りを作成出来る人は少数しかいない。
明治17年 6月15日(1884年)
相殿 八雲神社に伝わる神輿は、神賓記録(氏子総代会の神社日誌)には、明治17年6月15日
の祇園祭には神輿渡御が行なわれていたと記載されているが、これ以前の神賓記録は焼失した
為、記録は残っていない。
神輿の新造日は不明であるが、この神輿は、白木造りで初代の神輿と思われる。
明治28年 8月(1895年)
二代目神輿を新造(現在は神社、社務所に写真として保存されている)
この二代目神輿は、上清水町の大工が飾り用に作成し、屋根の大きい神社型神輿で、芯棒が無く
中は広かった。
*尚、初代神輿は、明治28年8月の二代目神輿の新造に伴い、上一丁目八雲神社に寄贈する。
上一丁目八雲神社は宝歴元年(1751年)建造
二代目神輿は、昭和20年の第二次世界大戦により神輿を長澤重兵衛氏宅地内に移転し保管
したが、戦火に見舞われ焼失した。
昭和24年10月15日(1949年)
氏子青年団が神輿の再建運動を起こす。
氏子各位、崇敬者等の寄付を賜わる。
昭和26年8月15日(1951年)
三代目神輿による渡御式を再現する。
三代目神輿は、千葉県市川市行徳の浅子神輿店(第15代 浅子周慶)によって新造された。
台座三尺二寸(96・96cm)の神社型塗り神輿、彫りは鎌倉彫り、漆塗りは屋根は黒色、
本体は朱色である。
神輿再建による寄付金総額 556,423円80銭
神輿製作費(浅子周慶) 435,000円
太鼓製作費(浅子周慶) 70,000円
献灯1基製作費 12,042円
輸送費、附属設備 38,453円
合計 555,495円
神輿渡御は、のぼり旗(小学生)・・・引き太鼓(幼児、園児)・・・猿田彦・・・
子供神輿(中学生)・・・大人神輿の順の行列で日中は氏子町内を練り歩いた。
当時の氏子町内は上清水町、上清水第二、横浜町、片羽町に加え桜が丘町、青葉町、西高町、
堂林を回った。
又、夜になると、大人神輿は荒神輿として江尻、清水銀座方面に八丁廻りと称して出向き
上清水(岡)のお天王さまとして親しまれた。
尚、子供神輿(浅子周慶 作)の新造日、費用についての神賓記録は不明である。
昭和38年8月(1963年)
時代の流れと担ぎ手の減少に伴い、大人神輿は八丁廻りの際に、浜田踏切り付近で担ぐ事が
出来ずに、氏子総代の手によって神社に持ち帰った。
以来、大人神輿は拝殿に飾るだけの、いわゆるお蔵入りとなった。
尚、子供神輿、引き太鼓は子供会によって継続されている。
昭和58年8月(1983年)
有志により神輿会が結成され、20年ぶりに神輿渡御が復活した。
但し、当時の氏子総代会会長(上清水町 神戸直吉)始め、氏子総代会は飲酒、神輿を落とさない
八丁廻りの禁止を条件とした。
初代神輿会会長に片羽町の望月輝男が就任した。
昭和59年4月(1984年)
氏子4町内(上清水町、上清水第二、横浜町、片羽町)が各神輿会を作り、4町で八雲連合神輿会
を発足させ氏子4町内を渡御した。
二代目八雲連合神輿会会長に横浜町の石川政雄が就任した。
氏子総代会会長に小野貞夫が就任した。
昭和62年8月(1987年)
神輿渡御前日に前夜祭として、神輿会主催の夜店を行う。
昭和63年4月(1988年)
三代目八雲連合神輿会会長に上清水町の井原博志が就任した。
平成2年6月26日(1990年)
大樟横の倉庫が焼失した。
失火原因は学生によるタバコの不始末
神輿担ぎ棒、大太鼓2基、太鼓引き台車等を焼失した。
平成3年1月27日(1991年)
焼失による引き太鼓一式を新調し、御披露目式を行う。
平成4年9月12日(1992年)
大人神輿の損傷が激しい為、第16代 浅子周慶(浅子神輿店)に神輿修復を依頼した。
平成19年10月、第16代 浅子周慶死去に伴い、後継者不在の為、浅子神輿店は廃業
している。
平成5年6月27日(1993年)
神輿修復の御披露目式を行う。尚、神輿会員を中心に寄付金を賜わる。
寄付金総額 8,165,000円
修復費用(浅子神輿店) 6,000,000円
御披露目費用 1,170,640円
ビデオ代、その他 665,000円
費用合計 7,835,640円
平成9年7月12日(1997年)
清水区春日町のプラザ平安に於いて、八雲連合神輿会発足15周年記念パーティーを行った。
大人神輿、衣装、各町内神輿会の手拭、ビーズの御守りを展示した。
平成12年8月(2000年)
片羽町通りにて、上一丁目神輿会と初の相互交流渡御を行う。
平成16年4月(2004年)
片羽町神輿会が役員不在の為、16年4月より17年3月の一年間休会した。
平成16年8月(2004年)
横浜町交差点にて、上一丁目神輿会と二回目の渡御対面式を行う。
平成18年3月(2006年)
氏子総代会会長で上清水第二の小野貞夫死去により、上清水町の澤野恒春が就任した。
平成18年4月(2006年)
四代目八雲連合神輿会会長に上清水町の川口信夫が就任した。
祭り全体のマンネリ化が進み、祭り関係部会の相互扶助、相互理解に欠け、関係部会への
無関心が片羽町神輿会の休会を招いた為、連合役員人事を一新し、氏子総代会の基、祭り全般
の見直しと改革、神輿会員の意識改革に取り組む。
平成18年8月11日(2006年)
マンネリ化の進む前夜祭の夜店出店者を募集し、子供会及び地区一般者が出店をした。
氏子総代会は、神輿渡御の宮出しセレモニーに浜田太鼓(浜田地区まちづくり推進委員会)の
演奏を依頼した。
平成19年8月10日(2007年)
前夜祭に大人神輿を拝殿から出し、より多くの人に見て触れて頂く為、大人神輿及び子供神輿
を境内に展示した。
平成20年4月(2008年)
子供神輿の損傷が激しい為、修復又は新調を氏子総代会、連合神輿会、子供会にて検討計画
する。
平成23年3月11日の東日本大震災により、修復実施予定を一年延期し平成25年に変更
決定した。
平成21年8月8日(2009年)
八雲連合神輿会と上一丁目神輿会の二基の神輿を連ねて、片羽町より上一丁目を通り横浜町
まで合同交流渡御を行う。
第三回目の対面式には、双方神社の氏子総代会、自治会長、各種団体役員、子供会育成会等が
参列した。
平成25年2月5日(2013年)
子供神輿修復(新造以来60年ぶりの修復)
千葉県市川市行徳の浅子神輿店廃業により、名古屋市守山区新守西の株式会社甲村に依頼、
屋根塗り直し、瓔珞等の不足品新調、金鍍金直し、最小限の修理費用と御披露目費用にて60
万円を要した。
尚、7月7日に御披露目式を行った。
平成25年8月10日(2013年)
子供神輿修復に伴う御披露目を兼ねて、1950年代に行われた、神輿渡御行列を60年ぶり
に行う。
氏子総代会、引き太鼓、登り旗、猿田彦、子供神輿、神官、高張提灯、大人神輿である。
夜間(19時より)の横浜町通りを一時間に渡り渡御し、餅撒きをして祝った。
平成30年4月1日(2018年)
氏子総代会会長 上清水町澤野恒春が体調不良により退任、横浜町の井柳直久が親子二代となる
氏子総代会会長に就任した。
令和2年8月8日(2020年)
年初よりコロナウイルスの蔓延により、全国的に行事、イベントが中止されオリンピックまで
も2021年に延期された。
例外になく三蜜を避ける為、八雲神社祭典(前夜祭、神輿渡御)も中止を余儀なくされたが、神事
のみ行い、神輿は組立御祓いを行う。八雲神輿会発足以来初めてであるが、昔の話では神輿を
担がなかった年に疫病が蔓延したと伝えられている。
令和3年8月14日(2021年)
昨年同様、コロナウイルスは一向に収まらない為、八雲神社祭典は今年も中止とした。
(静岡県及び静岡市は蔓延防止対策措置及び緊急事態措置を発令 8/8日~9/12日)
神事のみ行い、神輿は組立御祓いを行う。
尚、本部役員及び各町有志にて境内を2~3周担いで終了した。
令和4年8月13日(2022年)
コロナウイルスは7月に入り(第7波)蔓延収まらないが、各地でイベント、行事が行われる。
前夜祭は中止し、子供神輿は台車に乗せ例年通り、大人神輿は時間、距離を短縮して渡御する
予定であった。
7月31日逼迫宣言が発令され中止を決定した。
13日予定の神事は、静岡市台風上陸により14日に延期した。
令和5年8月12日(2023年)
前夜祭、祇園祭共に天候に恵まれ、四年ぶりの神輿渡御が行われた。
4町内共に子供が減少している為、引き太鼓を使用せず台車にて渡御した。
令和6年4月(2024年)
五代目八雲連合神輿会会長に上清水第二の大戸利之が就任した。